クラウス・ニーヅビーズ
来歴
1977年欧州フォーミュラ・ルノー、1978年欧州F3を経て1979年にETC(欧州ツーリングカー選手権)へとステップアップ。ザクスピードからの参戦となった。
翌年以降はドイツ国内へ主戦場を移し、DRM(ドイツレーシングカー選手権)へ参戦。
1985年にDRMが生まれ変わった新生DTM(ドイツツーリングカー選手権)にフォード・シエラで参戦。アヴスでのレースで優勝した。翌年も優勝を記録しており、シリーズ6位を得ている。1987年はWTC(世界ツーリングカー選手権)とDTMで活躍し、ル・マン24時間レースの勝者でもあるクラウス・ルートヴィッヒと組んでシエラで参戦した。日本で行われた最終戦のインターTECでも優勝。合計4勝する好成績を残したが、ニーズビーズとルートヴィッヒは車両規定違反として2レースで失格の裁定を受けてしまいタイトルを獲得したBMWのロベルト・ラヴァーリアに1ポイント及ばず2位となってしまう。ちなみにこの年のみの開催となったWTCはBMWとフォードの間で車両規定を巡って1年の間諍いが続いており、ラヴァーリアも1レースで失格となっている。
1981年から1987年まではWTC→WSPC(スポーツカー世界選手権)にも毎年スポット参戦し、ザクスピードのほかヨースト・レーシング、クレマー・レーシングなどのドイツの名門でフォードやポルシェなどをドライブした。
1988年からは再びDTMに参戦。1989年はタイトル争いを展開したが惜しくも2位となった。ニーズビーズを押さえてこのレースのタイトルを獲得したのもラヴァリーアであった。
また1988年から1990年の3年間引き続きインターTECにエントリーしており、88年はこの年の全日本ツーリングカー選手権のチャンピオンの横島久。1989年はアラン・モファットと組んで優勝し、ニーズビーズはインターTEC3連覇を達成した。90年もグレッグ・ハンスフォードと共に3位に入賞を果たしている。1985年から1998年まで11回に渡って開催されたインターTECでの優勝回数は星野一義についで2番目に多いドライバーとなっている(但し、JTCCに移行前のインターTECでの優勝回数では星野を上回っている)。
その後も引き続きDTMに1991年まで参戦を続けたが以前のような好結果を残すことはできなかった。
3年間のブランクの後ニーズビーズは、1995年からDTMに代わって開催されたSTW(ドイツ・スーパーツーリング選手権)でアルミン・ハーネと共にホンダ・アコードに2年間乗り、1996年は数回表彰台に登って8位となった[1]。97年はアウディ・A4で参戦。98年はオペル・ベクトラをドライブしたが、この年を持って第一線を退いた。
以降はモータージャーナリストとして活躍している。またフォルクスワーゲンのワークスチームなどから、ニュルブルクリンク24時間レースに2016年まで参加した。
レース戦績
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | ラップ数 | 順位 | クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1981年 | ヨースト・レーシング | デール・ウィッティントン ラインホルト・ヨースト |
ポルシェ・908/80 | S+2.0 | 80 | DNF | DNF |
1982年 | フォード・ワークス AG ザクスピード |
マンフレッド・ヴィンケルホック | フォード・C100 | Gr.C | 71 | DNF | DNF |
脚注
- “Klaus Niedzwiedz” (英語). Super Touring Register. 2020年3月4日閲覧。