カリンバ遺跡

カリンバ遺跡(カリンバいせき)は、北海道恵庭市黄金中央5丁目216-7ほかにある遺跡2005年(平成17年)3月2日に、国の史跡に指定され、出土品は2006年(平成18年)6月9日に重要文化財に指定された[1]。北海道を代表する、縄文時代後期後半から晩期初頭にかけての、多数の墓によって構成される遺跡である[2]。豊富な副葬品を持つ土坑墓群や数多くの合葬墓は縄文時代の埋葬習俗や装身文化、漆工技術などを考える上で貴重なものである[2]

カリンバ遺跡
カリンバ遺跡の位置(北海道内)
カリンバ遺跡
カリンバ
遺跡
遺跡位置

概要

道央地方南辺に位置し、千歳川の支流であった旧カリンバ川に面した標高約25m前後の低位段丘面とその北側の低地面にかけて立地する[3]。「カリンバ」とは、アイヌ語で「桜の木の皮」という意味である[4]。この川の名前が遺跡の名前の由来である。両者の比高は約2mほどである[3]。旧カリンバ川流域には数多くの縄文遺跡が分布するが、本遺跡周辺が最も分布密度が高く、さらに各時期の集落跡も見つかっていることから縄文時代においてこの地域が中核的な役割を担っていたことを物語っている[3]

1999年(平成11年)度に恵庭市教育委員会が土地区画整理事業に伴い発掘調査を行ったところ、縄文時代後期後半から晩期初頭にかけての竪穴建物、土坑、土坑墓、焼土などを検出した[3]。なかでも土坑墓は低位段丘面に密集して分布し、豊富な副葬品が出土したものもある[3]。副葬品は赤漆塗り櫛と玉類の組み合わせが基本で、他に各種漆製品、石棒、土器が伴う場合がある。これらの土坑墓には複数の人骨が出土する合葬墓と単一の人骨が出土する単葬墓があり、後者が多く検出されている[3]。しかし、後期末の御殿山式土器の時期には長径1.5メートル以上、深さが1メートル近くもある合葬墓が増加し、多数の装身具類が副葬されるなどの大きな特徴が見られる。合葬墓からは頭飾り、額飾り、耳飾り、腰飾り帯、紐状製品など、これまで例を見ない漆製装身具類が出土している[3]

恵庭市教育委員会では大型の合葬墓などの重要な遺構の切り取り保存を行うとともに、2000年(平成12年)度から土坑墓群の範囲及び遺跡の内容を確認するための発掘調査を行った[3]。調査の結果、低位段丘面からは900基を超える土坑墓が新たに確認され、遺跡全体では東西約160メートル、南北約120メートルの範囲に3000基ほどの土坑墓があるものと推定されている[3]。また、低地面からは貯蔵穴、柱穴、焼土のほかに土坑墓の副葬品と同様の赤漆塗り櫛や腕輪、サメの歯、滑石製玉類が出土した。さらに粉末状の赤色顔料、赤色顔料入りの土器、赤色顔料を粉末にする際に使用したと推定される板状の礫などが出土し、この区域が低位段丘面の墓域と密接に関係した作業空間及び生活空間として機能していたことが判明した[3]。このほか、シカイノシシなどの動物遺体や植物遺体も多く出土しており、当時の食生活や植生を知る具体的な資料も得られた。また、土坑墓に比べて竪穴建物の検出数が2棟のみと極めて少ないことから、周辺地域一帯の共同墓地としての性格が考えられる[3]

本遺跡は北海道を代表する、縄文時代後期後半から晩期初頭にかけての、多数の墓によって構成される遺跡であり、豊富な副葬品を持つ土坑墓群や数多くの合葬墓は縄文時代の埋葬習俗、装身文化、漆工技術を考える上で極めて重要である[3][2]

脚注

  1. カリンバ遺跡について”. 恵庭市. 2020年11月9日閲覧。
  2. 史跡等の指定等について [別紙]”. www.mext.go.jp. 文部科学省(改変あり). 2020年11月15日閲覧。
  3. 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2020年11月15日閲覧。
  4. 国指定史跡 カリンバ遺跡”. 2020年11月9日閲覧。

関連項目

外部リンク

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