カウシャーンビー
カウシャーンビー(サンスクリット語: कौशाम्बी kauśāmbī)は、インド古代の都市で、十六大国のひとつヴァツサ国の首都であった。現在のウッタル・プラデーシュ州カウシャーンビー県にあたる。
カウシャーンビー | |
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都市 | |
カウシャーンビーで鋳造された紀元前1世紀の銅貨。「Kosabi」の刻文あり(大英博物館) | |
カウシャーンビー カウシャーンビー | |
座標:北緯25.338984度 東経81.392899度 | |
国 | インド |
位置
カウシャーンビーの位置については長らく議論があった。玄奘『大唐西域記』にプラヤーガ(今のイラーハーバード)から西南500里の所にあるといい、『大慈恩寺三蔵法師伝』ではプラヤーガから7日かかるとしている[1]。しかし実際にはカウシャーンビーはイラーハーバードの南西70キロメートルほどの、ヤムナー川北岸にあった[2]。玄奘の記述は距離を過大に書いていたことになる。一帯は現在カウシャーンビー県と呼ばれている。
1861年にアレキサンダー・カニンガムは、ヤムナー川の北岸の地をカウシャーンビーと同定した。1940年代から1950年代にかけて、G.R.シャルマの率いるイラーハーバード大学の考古学的調査により、カウシャーンビーの跡から多数の遺物が発見され、この推定の正しさが明らかとなった[2]。
歴史
カウシャーンビーで発見された最古期の城壁は紀元前7世紀にさかのぼると考えられる。6世紀にエフタルのトラマーナによる侵略によって破壊されたらしい[3]。
プラーナ文献の一部は、クル国のジャナメージャヤ(アルジュナの玄孫)から4代目の王のときに首都のハスティナープラがガンジス川の洪水で被害を受けたためにカウシャーンビーに遷都したとするが、ハスティナープラとカウシャーンビーでは離れすぎている[4]。
ウダヤナ王の時代、カウシャーンビーは交通の要地であり、商業が発達していた。パーリ仏典によれば、祇園精舎と同様に、裕福な商人であるゴーシタ、クックタ、パーヴァーリカの3人は安居のための施設を作って仏陀を招いた[2]。
現在イラーハーバードにあるアショーカ王の石柱は、本来はカウシャーンビーに立てられていたものと伝えられる。碑文にはコーサンビーの大官(マハーマートラ)にあてて、サンガを分裂させる者を罰するという内容が書かれている[5]。
玄奘はカウシャーンビーで、ウダヤナ王が刻んだと伝えられる、栴檀の木を刻んで作った仏像を見ている。またゴーシラ(ゴーシタ)の家の跡があることも伝えている[6]。
脚注
- 水谷訳(1999) 巻2 pp.228-230
- Rohan L. Jayetilleke (2007-12-05), The Ghositarama of Kaushambi, Daily News, オリジナルの2007-12-05時点におけるアーカイブ。
- 水谷訳(1999) p.230
- Pargiter (1922) p.285
- Salomon (1998) p.139
- 水谷訳(1999) pp.230-233
参考文献
- Pargiter, F.E. (1922). Ancient Indian Historical Tradition. Oxford University Press
- Salomon, Richard (1998). Indian Epigraphy. Oxford University Press. ISBN 0195099842
- 玄奘 著、水谷真成 訳『大唐西域記』 2巻、平凡社東洋文庫、1999年。ISBN 4582806554。
外部リンク
- 森章司; 本澤綱夫『コーサンビーの仏教』〈中央学術研究所紀要モノグラフ篇No.14〉2009年 。