エジコ・フォン・バレンシュテット

エジコ・フォン・バレンシュテットドイツ語:Esico von Ballenstedt, 990/1000年 - 1060年ごろ[1])は、アスカーニエン家の家祖。バレンシュテット伯(fl. 1036年 - 1060年)であり、その領地は後のアンハルト侯領のもととなった。

エジコ・フォン・バレンシュテット
Esico von Ballenstedt
バレンシュテット伯
在位 fl. 1036年 - 1060年

出生 990/1000年
死去 1060年ごろ
配偶者 マティルデ・フォン・シュヴァーベン
子女 アーダルベルト2世
アデライーデ
オットー
家名 アスカーニエン家
父親 バレンシュテット伯アーダルベルト?
母親 ヒッダ?

生涯

エジコの父はアーダルベルト・フォン・バレンシュテットであり、オストマルク辺境伯オド1世の娘ヒッダと結婚したともいわれるが、これを裏付ける資料はない[2]。エジコはマイセン辺境伯エッケハルト2世の妃ウタ・フォン・バレンシュテットと、ゲルンローデ女子修道院長ハツェヒャの兄弟にあたる[3]。また、ディートリヒという兄弟もいた可能性がある[4]

エジコについてはほとんど知られていないが、バレンシュテット城に居を構え、ザクセンのシュヴァーベンガウ、ハルツガウ、北チューリングガウの伯であったと考えられている[5][6]

エジコは皇帝コンラート2世が発行した1036年の証書で最初に確認され、その後1059年までに発行された8つの勅許状でも確認される[7]。また、13世紀の年代記『Annalista Saxo』において、Esicus de Ballenstideとして記されている[8]。母方の祖父である辺境伯オド1世からオストマルクの広大な領地を相続したと考えられている[9]。また、遅くとも1036年ごろから亡くなる1060年ごろまでバレンシュテット伯であった[4]

1043年ごろ、エジコはローマのパンクラティウスとアバンディウスに捧げられた教会をバレンシュテット城の近くに建立したとみられる[4]。また、エジコはナウムブルク大聖堂の創設者の1人で、大聖堂は姉妹のウタが主要な寄進者であった[10]。エジコがアンハルト城の最初の建物を1050年に建設したとする資料もあるが[11]、他の資料ではアンハルト城はエジコの孫であるバレンシュテット伯オットーによって1123年ごろに建設されたとされる[12]

ウタとエッケハルト2世がそれぞれ1045年と1046年に子供がいないまま亡くなったとき、夫妻の領地は神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世に返還されることになっていたが、エジコはエッケハルト2世らの遺領の大部分をゲルンローデ女子修道院の管理下とすることを保証した。この修道院ではエジコの姉妹ハツェヒャが1043年以降に修道院長をつとめていた[2]

エジコの領地は後のアンハルト侯領のもととなった[13]

結婚と子女

エジコはマティルデという名の女性と結婚した。『Annalista Saxo』によると[14]、エジコはシュヴァーベン公ヘルマン2世の娘で神聖ローマ皇帝コンラート2世の義姉にあたるマティルデ・フォン・シュヴァーベンと1026年ごろに結婚したという[15]。マティルデの2番目の夫上ロートリンゲン公フリードリヒ2世は1026年ごろに死去したと考えられており(1033年まで生存していたとも考えられている)[16]、エジコと3度目に結婚した可能性がある。一方でエジコはマティルデ・フォン・ヴェルルと結婚したともされる[17]

エジコは妻との間に以下の子女をもうけた。

  • アーダルベルト2世(1030年頃 - 1076/83年) - バレンシュテット伯[4]
  • アデライーデ - ティモ・フォン・シュラプラウと結婚
  • オットー

脚注

  1. Partenheimer 2001, p. 22.
  2. Feicker 2012, p. 16.
  3. Feicker 2012, p. 15.
  4. Schlenker 2012, pp. 29–30.
  5. Partenheimer 2001, p. 20.
  6. Assing 2002, p. 6f.
  7. Codex diplomaticus Anhaltinus, I, nos. 111 (1036); 112 (1041); 115 (1043); 116 (1043); 116a (1043); 117 (1043); 122 (1046); 129 (1051); 16 (1059).
  8. Annalista Saxo, a.1025, p. 337.
  9. Partenheimer 2001, p. 20f.
  10. Schmarsow 1892, p. 21.
  11. Haan 2015, p. 104.
  12. Feist 1997.
  13. Thiele 1991, table 217.
  14. Annalista Saxo, a.1026, p. 363.
  15. Schlenker 2012, p. 32.
  16. Mohr 1974, pp. 77–80.
  17. Trillmich 1991, p. 79.

参考文献

  • Schlenker, Gerlinde (2012). “Kloster Ballenstedt - das Hauskloster der aelteren Grafen von Anhalt”. Harz-Zeitschrift für den Harz-Verein für Geschichte und Altertumskunde e.V.. Lukas Verlag
  • Feicker, Bernd (2012). “Das Vorwek des Reichsstiftes Gernrode und das Kuechengut der Blankenburger”. Harz-Zeitschrift für den Harz-Verein für Geschichte und Altertumskunde e.V.. Lukas Verlag
  • Mohr, W. (1974). Geschichte des Herzogtums Lothringen. vol. 1. Verlag Die Mitte
  • Annalista Saxo, in Die Reichschronik des Annalista Saxo, ed. K. Nass, MGH SS 37 (Munich, 2006), accessible online at: Monumenta Germaniae Historica.
  • Assing, Helmut (2002). Die frühen Askanier und ihre Frauen. Kulturstiftung Bernburg
  • Partenheimer, Lutz (2001). Albrecht der Bär. Gründer der Mark Brandenburg und des Fürstentums Anhalt. Köln, Weimar, Wien: Böhlau. ISBN 3-412-06301-0
  • Trillmich, W. (1991). Kaiser Konrad II. und seine Zeit. Bonn: Europa Union Verlag
  • Thiele, A. (1991). Erzählende genealogische Stammtafeln zur europäischen Geschichte. Teilband 1 Deutsche Kaiser-, Königs-, Herzogs- und Grafenhäuser I. vol. I. R.G. Fischer
  • Schmarsow, August (1892). Die Bildwerke des Naumburger Domes. Ev Flottwell
  • Haan, Elke (May 15, 2015). Kompass Wanderführer Harz: 50 Touren. Mair Dumont DE
  • Feist, Peter (1997). Burg Anhalt - Der Ort, der dem Land den Namen gab. Berlin: Kai Homilius Verlag
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