アストラハン・コサック軍

アストラハン・コサック軍ロシア語Астраханское казачье войскоウクライナ語Астраханське козацьке військо)は、1817年から1918年までヴォルガ川の下流、アストラハンの周辺に存在したロシア帝国コサック軍の一つである。ヴォルガ・コサックカルムイク人タタール人から編成されていた。

ヴォルガ川の流域。アストラハン・コサックは当川の下流、アストラハンとサラトフの間に居住していた。
1818年のアストラハン・コサック軍の軍旗。
1862年のアストラハン・コサック軍のコサック大将。19世紀のアストラハン・コサックの軍服の定色は黄色で、当コサック軍に圧倒的に多かった「黄色人種」の代表、カルムイク人とその混血児の存在を強調する色であった。
1943年のアストラハン・コサックの臂章。

概要

1556年モスクワ大公国アストラハン・ハン国を亡ぼし、自国の南方国境を警備する100人のヴォルガ・コサック番人衆をアストラハンに入れ置いた。約2世紀後、1737年4月1日にロシアの元老院の命により、番人衆に正教洗礼を受けた200人のカルムイク人が加えられ、カザフ人アディゲ人の侵入防止を任ぜられた。さらに、1750年3月28日に元老院は300人の番人衆を500人のコサック連隊へ再編し、ヴォルガ川の右岸、アスタラハンからチョールヌイ・ヤールまでの地域で居住させた。1801年にアストラハン・コサック連隊にツァリーツィンカムイシンサラトフのコサック番人衆と、ヴォルガ・コサックの残党、カルムイク人、タタール人も加わえられた。1806年にアストラハン・コサック連隊は3つの連隊[1] に分けられ、4つの地区で国境警備が任せられた。

1817年にアストラハン・コサックの3つの連隊は正式なアストラハン・コサック軍に再編成され、1818年に当コサック軍の初代軍長にはコサック階級のヴァシーリイ・スクヴォルツォーフが任命された。1833年にアストラハン・コサック軍はカウカズ軍団の管掌から離せられ、任命アタマンとしてのアストラハン県の県知事の支配下に置かれた。1872年にアストラハン・コサック軍は2つの地区に分けられ、3つの連隊から1つの騎兵連隊が構成された。

20世紀の始めにアストラハン・コサック軍は、ツァリーツィン、サラトフ、チェールヌィイ・ヤールとクラースヌイ・ヤールの周辺の4つの集落、16つのゲル型集落と57の村落に駐屯し、882,740ヘクタールの面積を有する土地を持っていた。1916年に女・子供を含むコサック軍の総人口は4万人ちかくであった。平時にはアストラハン・コサック軍が義務を果たすために4つの百人隊からなる1つの騎兵連隊と1つの親衛小隊を国家に出し、戦時には3つの騎兵連隊、1つの親衛小隊、1つの砲兵大隊、1つの特別百人隊と1つの予備百人隊、合わせて約2600人を出していた。

アストラハン・コサックは以下ほどの軍役に参陣していた。

アストラハン周辺のコサック番人衆として
アストラハン・コサック軍として

1917年ロシア革命後、ボリシェヴィキ政権が誕生すると、アストラハン・コサック軍は「反革命的」な組織と見なされ、弾圧を受けた。1918年2月にボリシェヴィキの赤軍がアストラハンを占領し、2月26日にボリシェヴィキ系のアストラハン軍事委員会会長のミーナ・アーリストフはアストラハン・コサック軍を廃止した。これによってアストラハンのコサックはドン地方ウラル地方へ逃亡し、白軍に加わって当地方で赤軍と戦った。1919年10月から11月にかけてコサックの一部は白軍によるアストラハンの戦いに参加したが、ボリシェヴィキに敗れた。1920年にアストラハン・コサック軍は事実上消滅した。弾圧と殺害を逃れたアストラハン・コサックの残党は1943年1945年ドイツ国防軍のコサック諸連隊に編成された。

指揮官・アタマン

アストラハン・コサック連隊の指揮官
スロボードチコフ大佐Слободчиков1737年1761年
ガリーツィン百人隊長Гальцин1761年1764年
フトケーヴィチ大佐Хуткевич1764年1767年
スミルノーフ百人隊長Смирнов 1767年1777年
グリゴリー・ペルシドスキー少佐Григорий Васильевич Персидский1777年1790年
ピョートル・スクラジンスキー准将Пётр Михайлович Скаржинский1790年1792年
パーヴェル・ポポフ准将Павел Семёнович Попов1792年1815年
ワシーリイ・スクヴォルツォーフ軍長Василий Филиппович Скворцов1815年1816年
ロマーン・バグラチオン大佐Роман Иванович Багратион1816年1818年
アストラハン・コサック軍の任命アタマン
ワシーリイ・スクヴォルツォーフ軍長Василий Филиппович Скворцов1818年1823年
パーヴェル・ペトローフ大佐Павел Иванович Петров1826年1835年
ワシーリイ・ノーソフ大佐Василий Иванович Носов1835年1836年
イヴァン・レヴェンシュテルン大佐Иван Иванович Левенштерн1836年1837年
エルンスト・フォン・デル・ブリッゲン少将Эрнст фон дер Бригген1838年1848年
アレクサーンドル・ヤフィモーヴィチ少将Александр Матвеевич Яфимович1848年1849年
ミハイール・ヴルーベリ少将Михаил Антонович Врубель1849年1857年
アレクサーンドル・テレペレフスキー少将Александр Евгеньевич Терпелевский1857年1858年
ニコラーイ・ベクレミーシェフ少将Николай Петрович Беклемишев1858年1862年
ミハイール・トルストーイ大佐Михаил Павлович Толстой1862年1864年
グレゴーリイ・モーロストフ大佐Григорий Васильевич Молостов1864年1867年
アレクサーンドル・グリケーヴィチ少将Александр Васильевич Гулькевич1867年1875年
K. フォッス少将К. Ю. Фосс1876年1880年
ニコラーイ・プロターソフ=フメーチェフ少将Николай Алексеевич Протасов-Бахметев1880年1882年
イェヴゲーニイ・ヤンコーフスキー少将Евгений Осипович Янковский1882年1883年
ニコラーイ・ツェーイメルン少将Николай Максимович Цеймерн1884年1888年
レオニード・ヴャーゼムスキー少将Леонид Дмитриевич Вяземский1888年1890年
ニコラーイ・テヴャーシェフ中将Николай Николаевич Тевяшев1890年1895年
ミハイール・ガーゼンカムプフ中将Михаил Александрович Газенкампф1895年1903年
ブロニスラーフ・グロムブチェーフスキー少将Бронислав Людвигович Громбчевский1903年1906年
イヴァン・ソコロフスキー中将Иван Николаевич Соколовский1906年1917年
イヴァン・ビリュウコーフ少将Иван Алексеевич Бирюков1917年1918年
アストラハン・コサックのアタマン
ニコラーイ・リャーホフ少将Николай Васильевич Ляхов1943年1945年

脚注

  1. 第1アストラハン・コサック連隊、第2アストラハン・コサック連隊、第3アストラハン・コサック連隊。

参考文献

外部リンク

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