おサル電車
概要
1948年(昭和23年)9月23日に営業を開始した。当初の運用は、バッテリー駆動の電気機関車をサルが運転して客車を牽引する方式で[1]、乗客は子供、金額は3円であった。サルが運転しているため、気ままにバックしたり、止まったりすることがあり、それも売りの一つであった。おサル電車は、スタートするとたちまち人気アトラクションとなった[2]。
その後、サルの訓練が大変であること、10歳以上のサルは凶暴性を帯びて乗客に危害を加える可能性があることなどを理由に、1955年頃にはサルによる運転が中止され、係員による操作に切り替えられ、サルは先頭車に座るだけとなった[1]。後に再びサルの運転になった[3]。
1962年(昭和37年)5月には開園30周年を機に大幅な改装が行われ、軌間は従来の455mmから520mmに、軌条は6kgから9kgに、集電方式は直流第三軌条方式になった。車両も大型化され、先頭車は当時開業間近であった新幹線車両を模したものとなった[4]。
しかし1973年に動物の愛護及び管理に関する法律が制定、「おサル電車はサルに多大な負担をかける」という判断から、動物園は廃止を決定。おサル電車は1974年(昭和49年)6月30日に廃止された[2]。
最終日には「さよならおサル電車」が開かれ、今まで運転する側であったサルが乗客となる場面もあった[2]。
背景
おサル電車についての諸背景を以下に記す。
誕生について
おサル電車の誕生には、太平洋戦争が大きな影響を及ぼした。空襲によって動物園のオリが壊れて猛獣が逃げ出すことを恐れて、ゾウやライオンといった人気のある動物が殺処分された結果、終戦時の上野動物園には人を呼べるものが無かった。こうした中で、子供たちへの企画の一つとして、おサル電車は誕生した[2]。なお、おサル電車を世に生み出したのはロボット研究家である相澤次郎と言われることがあるが、相沢が上野動物園に提案したのはロボットが運転する電車であり、サルが運転する電車を考えたのは上野動物園側である[2]。ただし、完全に縁がなかったわけではなく、初代おサルの電車は相沢が提供したロボット電車にサルが搭乗していた[2]。
また、このおサル電車は子供向けのアトラクションの他に、動物心理学の実験、サルの知能の紹介といった目的もあった[2]。
特記事項
脚注
- “ニュースボックス1963(昭和38)年9月23日 上野動物園の“おサル電車”が15周年 - 毎日jp(毎日新聞)”. web.archive.org. 2010年4月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月14日閲覧。
- 白土健、青井なつき『なぜ,子どもたちは遊園地に行かなくなったのか?』創世社、2008年5月
- 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」157巻より。
- 交友社『鉄道ファン』1962年11月号(通巻17号)p71
参考文献
外部リンク
- 上野の山のおサル電車 - 2021年9月24日時点のアーカイブ