いすゞ・ヒルマンミンクス

ヒルマンミンクスは、かつていすゞ自動車ルーツ自動車と提携し、CKD(完全ノックダウン生産)で製造販売していた自動車である。

いすゞ・ヒルマンミンクス
概要
販売期間 1953年-1964年(全2世代)[1]
ボディ
ボディタイプ 4ドアセダン
駆動方式 FR
系譜
先代 なし
後継 いすゞ・ベレル[2]
いすゞ・ベレット[3]


発売までの経緯

1953年2月にイギリスのルーツ社と技術援助契約していたいすゞは、4月に「ヒルマン・ミンクス組立準備室」を設置し、休止していた大森工場の工事を再開[4]

6月に「ヒルマン・ミンクス部品国産委員会」を創設して部品の国産化を推進[5]

ルーツ社がレイアウトを設計した工場は10月1日に操業を開始し、26日には第1号車がラインオフ[6]。28日には披露式を、11月12日には東京・高輪で発表会が行われ、それと同時に発売となった[7]

車名の由来

英国生まれで「おてんば娘」という意味を持つ[8]

概要

トラックバス専業メーカーだったいすゞにおいて、乗用車分野進出の先駆けとなった自動車である。なおボディの製造は当時の三菱日本重工業(現・三菱重工業)が担当していた。

ラインナップにはセダンのスーパーデラックス、スタンダードの他に、2ドアのライトバンワゴン型)であるヒルマンエキスプレスがあった。

いすゞの生産工程における品質管理水準は当時、すでに相当高度になっていた模様で、1958年(昭和33年)4月に訪日した際にいすゞ製ミンクスを実見したイギリスの自動車評論家ロナルド・バーカーは、イギリス本国製のミンクスと比較して「日本製の方が細部の仕上げとたてつけがよいように見受けられた。」[9]と後年記述している。

日本では「ヒルマンミンクス」と続けて称されることも多いが、「ヒルマン」は元は独立メーカーの社名でルーツグループ傘下に入った後は同社の大衆車 - 中級車ブランドとなっており、「ミンクス」はヒルマンの量販車種のネームとして1930年代から30年以上にわたって用いられた、伝統ある車名である。日本でポピュラーな1956年昭和31年)からのモデルは、レイモンド・ローウィ事務所によるスタイリングである。

CKDから始まった初代、そしてボルト1本に至るまで完全国産化を実現した2代目の生産において、いすゞは乗用車製造の技術を修得し、マイナーチェンジや仕様変更を重ねる中で日本の道路事情に合わせた改良が行われ、本家を凌ぐほどに完成度を高めた[2]

2代合計生産台数は5万7729台[10]

ノックダウン生産車の中でもマイナーチェンジが多い乗用車で、2代目でも頻繁にマイナーチェンジを行っている[11]

初代 PH10型(1953年-1956年)

いすゞ・ヒルマンミンクス(初代)
PH10型
概要
販売期間 1953年11月 - 1956年9月[12]
ボディ
乗車定員 4-5人
ボディタイプ 4ドア セダン
駆動方式 FR[13]
パワートレイン
エンジン 1.3L 水冷直列4気筒 SV
変速機 4速MT[11]
サスペンション
フロント:ダブルウィッシュボーン式コイル独立懸架[11]
リア:反楕円リーフ式リジッド[11]
車両寸法
ホイールベース 2,362 mm[11]
全長 4,000 mm
全幅 1,575 mm
全高 1,524 mm
車両重量 956 kg
その他
最高速度 104km/h[11]

初代は、イギリスルーツ自動車と提携し、ヒルマン・ミンクスMk VIを製造から開始。 同年4月には日野ヂーゼル工業がフランスのルノー公団と提携して4CVを、5月に日産自動車がイギリスのBMCと提携してオースチンA40サマーセットを発売したため、日本では、3番目となるノックダウン生産乗用車だった[14]

本国でマークVIと呼ばれていた初期型(PH10型)は、タイヤとバッテリー以外は全てルーツ製の部品を組み立てる「コンプリートノックダウン」で生産を開始した[15]

ボディは全体的に丸みを帯びた柔らかいラインと、リアドアがリアタイヤに被さるオーバーフェンダーが特徴で、丸型2灯式ヘッドランプと、横格子の大型グリル、メッキバンパーで構成されるフロントマスクは、いかにも英国車風の雰囲気を漂わせていた[16]。本国ではコンバーチブルやハードトップも生産されていたが、日本国内版は4ドアセダンのみで、本国製と見分けがつかないほど忠実に作られていた[17]

当時の国産車が足元にも及ばない風格と走行性能を有し、日産・オースチンや日野・ルノー4CVをライバルとした[18]。ごく一部の人間しか自動車を所有できない時代に、富裕層から人気を得た[19]

初代のヒットを受け、いすゞ自動車は、英国でデビューした2代目の国内生産準備を極秘裏に開始。この計画は工場見学を中止し、走行テストを夜間に行うなど、一切がベールに包まれたまま進められた[11]

年表

  • 1953年(昭和28年)
    • 1月[20] - 生産開始。
    • 11月 - ヒルマン・ミンクスMk VIのCKD組み立て車を発売。
  • 1954年(昭和29年)
    • 7月 - 初めてのマイナーチェンジを行なう。マークVII(PH11型)となり、前後バンパーにオーバーライダーが装着されて全長が50mm拡大。リアランプを丸型から角型に変更したほか、リアウィンドーの面積とトランクの容量も拡大された[11]
    • 10月 - 国産化率が17.9%にアップ[21]
  • 1955年 (昭和30年)
    • 2月 - 前月のトヨペット・クラウンのデビューに伴い、後席を3人掛けとして乗車定員を5人に増やした[11]
    • 7月 - マイナーチェンジを行ない、マークVIIとなり、エンジンをOHVのGH12型に変更し、最高出力は43ps、最高速度は123km/hとなった[11]。同時にフロントグリルが細かい縦格子を1本の太い横バーで引き締めたデザインに変更され、全長はさらに62㎜延長[11]。丸みを帯びたスタイルに大きな変更はないが、フロントドア部分で切れていたサイドモールがリア部まで延長されている[11]
    • 10月 - 国産化率が28.1%にアップ[22]
  • 1956年(昭和31年)
    • 2月 - マイナーチェンジ。マークVIIとなり、サイドモールを境にしたツートンカラーが採用された[11]
    • 6月 - 累計生産台数5000台を達成[11]
    • 9月 - 国産化率が50%に達したのと同時に2代目と世代交代[23]

グレード構成

  • 出典:デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第97号4ページ
発売 ボディ
タイプ
仕様 車両型式 ミッション 全長×全幅×全高 ホイール
ベース
車両重量 エンジン名 排気量 最高出力 最大トルク 価格
1953年11月 4ドアセダン PH10 4MT 4000x1575x1524mm 2362mm 963kg GH10 1265cc 37.5ps/4200rpm 8.0kg-m/2200rpm 102万5000円
1955年7月 4ドアセダン PH12 4MT 4112x1613x1549mm 2362mm 984kg GH12 1390cc 43ps/4400rpm 9.2kg-m/2200rpm 99万円

2代目 PH100型(1956年-1964年)

いすゞ・ヒルマンミンクス(2代目)
PH100型
フロント(1958年製)
フロント(1961年製)
リア
概要
販売期間 1956年9月 - 1964年6月[2]
ボディ
乗車定員 5-6人[24]
ボディタイプ 4ドアセダン
駆動方式 後輪駆動[24]
パワートレイン
エンジン GH150 1.5L 水冷直列4気筒 OHV
最高出力 62 PS/4,600 rpm
変速機 4MT[24]
サスペンション
フロント:ダブルウィッシュボーン式独立懸架[24]
リア:半楕円リーフリジッド式[24]
車両寸法
ホイールベース 2,438 mm[24]
全長 4,140 mm
全幅 1,543 mm
全高 1,510 mm
車両重量 1,065 kg
その他
1964年6月までの生産台数 総計6万7729台[25]
系譜
後継 いすゞ・ベレル[2]
いすゞ・ベレット[3]

2代目は、本国のフルモデルチェンジに伴い、先代に与えられていたマークVIIまでのナンバーはなくなり、ニューヒルマン・ミンクスシリーズI(PH100型)として新登場[2]

エクステリアデザインは、インダストリアルデザインの草分けとされるレイモンド・ローウィーが手掛けており、全体的にエレガントなイメージの柔らかい曲線で構成されている[2]。ヘッドランプから1950年代のアメ車的なテールフィンまで流れるラインが印象的で、リアウィンドーは、サイドまで回り込む湾曲ガラスを採用することで広い視野を確保[2]

全長は初代とほぼ変わらないが、ホイールベースが延長され、フロントドアの幅が広げられた[2]。リアドアはリアタイヤと被らない設計となり、前席、後席の乗降性と後席の居住性が大幅に向上[2]。フレームを3分割し、箱型断面の補強材を多用することでボディの剛性強化が図られ、走行安定性も高まっている[2]

インテリアは、当時の中型セダンとしては豪華なもので、厚みのあるシートやドアの内張りは合成皮革と化学繊維が組み合わされ、床にはウール製のカーペットを採用[2]。インパネはモダンなデザインのセンタースタイルで、その下にはラジオかヒーターを装備できた[2]

当時の国産車は比較対象にはならず、ライバルは日産自動車が生産するオースチンA50ケンブリッジだったが、こちらの流麗なスタイルと操縦性の良さは富裕層に人気が高い[2]

年表

  • 1956年(昭和31年)
    • 1月[26] - ヒルマン・ミンクスMk VIIIのノックダウン生産開始。
    • 9月 - 販売開始。徐々に国産化率を高め、翌年10月には国産化が完了[24]
  • 1958年(昭和33年)
    • 1月 - 一部改良。パワーアップし、スーパーDX追加[24]
    • 3月 - Std(スタンダード)を追加[24]
    • 6月 - マイナーチェンジ。ヒルマン50周年記念車ジュビリーを追加し、乗車定員も5人から6人に変更[24]
  • 1959年(昭和34年)10月 - マイナーチェンジ。イギリス本国より1年遅れて1,500 ccへ排気量アップし、後席の乗り心地が改善された。[24]
  • 1960年(昭和35年)10月 - フロントグリル、リアランプ、インパネなど内外装を変更し、ハイスタイルとなり、本国のヒルマンとは別に、いすゞ独自のスペックとなる[24]
  • 1961年(昭和36年)10月 - マイナーチェンジ。ハイスタイル62[24]となる。
  • 1962年(昭和37年)10月 - 一部改良。ハイスタイル63となる[24]
  • 1963年(昭和38年)4月 - パワーアップ。ハイスタイル64となり、エンジン出力は68/70psで、オリジナルを上回る性能に達した[24]
  • 1964年(昭和39年)
    • 1月[27] - 生産終了。在庫販売体制に入る。
    • 6月 - 在庫分がすべて完売し、販売終了。

グレード構成

出典:デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第95号2ページ。

発売 ボディ
タイプ
仕様 車両型式 ミッション 全長×全幅×全高 ホイール
ベース
車両
重量
エンジン名 排気量 最高出力 最大トルク 価格
1956年9月 4ドア
セダン
PH100 4MT 4076x1555x1511mm 2438mm 998kg GH100 1390cc 46ps/4600rpm 9.25kg-m/2400rpm 103万円
1958年6月 4ドア
セダン
スーパーデラックス PH200 4MT 4076x1555x1511mm 2438mm 1050kg GH100 1390cc 55ps/4600rpm 10.3kg-m/2400rpm 110万円
1958年6月 4ドア
セダン
スタンダード PH200 4MT 4076x1555x1511mm 2438mm 1015kg GH100 1390cc 50ps/4600rpm 9.35kg-m/2600rpm 88万円
1959年
10月
4ドア
セダン
スーパーデラックス PH300 4MT 4125x1555x1511mm 2438mm 1065kg GH150 1494cc 62ps/4600rpm 11.2kg-m/2600rpm 105万円
1959年
10月
4ドア
セダン
スタンダード PH300 4MT 4105x1555x1511mm 2438mm 1030kg GH150 1494cc 60ps/4600rpm 10.8kg-m/2600rpm 83万円
1963年9月 4ドア
セダン
スーパーデラックス PH50 4MT 4140x1543x1510mm 2438mm 1065kg GH150 1494cc 70ps/5000rpm 11.2kg-m/2200rpm 87万円
1963年9月 4ドア
セダン
スタンダード PH50 4MT 4140x1543x1510mm 2438mm 1030kg GH150 1494cc 68ps/5000rpm 10.8kg-m/2200rpm 69万円


後継車

  • ヒルマンミンクスの製造で蓄積したノウハウを投入したベレルが事実上の後継車として登場した。

関連項目

関連メーカー

関連車種

出典

  1. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 シリーズガイド8ページより。(創刊号巻頭より。)
  2. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第95号1ページより。
  3. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第25号3ページより。
  4. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  5. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  6. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  7. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  8. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  9. ロナルド・バーカー「初めての日本訪問(2)」(小林彰太郎訳 Super CG29号 p57 二玄社 1995年6月)
  10. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第95号1ページ及び第97号3ページより
  11. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号4ページより。
  12. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  13. ヒルマン・ミンクス(1953年1月~1955年1月)”. 2023年2月25日閲覧。
  14. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  15. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  16. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  17. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  18. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  19. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  20. ヒルマン・ミンクス(1953年1月~1955年1月)”. 2023年2月25日閲覧。
  21. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  22. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  23. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第97号3ページより。
  24. デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車第95号2ページより。
  25. ヒルマン・ミンクス(1956年1月~1964年1月)”. 2023年2月25日閲覧。
  26. ヒルマン・ミンクス(1956年1月~1964年1月)”. 2023年2月25日閲覧。
  27. ヒルマン・ミンクス(1956年1月~1964年1月)”. 2023年2月25日閲覧。

外部リンク

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